小学校低学年の頃だったか。
その日、理科の授業で温度計について習った。
我々生徒は先生から温度計を各々1本配られた。それで気温の読み方とか教わった、というからにはかなり幼き頃の話である。
赤い水銀が指し示す目盛を一生懸命読み取り、さて、と先生は言う。
「みなさん、今の教室の温度は何度ですかぁ? わかる人手を上げてー」
元気よく皆が手を上げる。
クラスメートが一人指名され、これまた元気よく答える。
とまぁ、ほのぼのした光景なのだが、今思えば何か違和感を私は感じるのです。
目盛を読み、先生の質問に耳を傾け、挙手をし、当てられ答える。僅か数分の出来事なのだが、それって「今の温度」なのか?
「さっきの温度」じゃないのか?
正確に答えようとすれば、常に目の前に温度計をもっていき、黒板にも先生にも目をやらず、目盛を注視し続けなければ、「今」の温度は答えられないのではないのか?
いやまぁ、そんな数分で劇的に温度が急上昇したりはしないので、たとえ正確に言えば「さっき」の温度であっても別段何の問題もないのだけどね。しかし、また同時に劇的に温度が変化する可能性もゼロとはいえないはずだ。
つまり正確に「今の温度」を知りたければ、人の話に耳を傾けず、周りの何事にも気をとられず、ただひたすら、そう、昆虫を観察するファーブルのごとき集中力で温度計を見つづけなければ「今の温度」はわからないということになるではないか。
これだけ科学が発達してるのに、たかだか「今の温度」を正確に把握するためには始終温度計を見つめていなくてはならないとは!
とはいえ世にはデジタルなるものがあるので、水銀の目盛を読みつづける苦労は軽減するのだけど。
世間話で我々は、今日は暑いですねと言い、最近めっきり冷え込みますね、と言う。しかし、そんななか、誰も正確に「今の温度」を把握して発言してないのである。
大体こんなもんだろうと大雑把に把握しているに過ぎない。
もし貴方の前で
「今日はなんだか暖かくて過ごしやすいですなぁ」
と話し掛けてくる紳士が、手元の時計でなく温度計をちらちら見やって話していたとすれば、なかなか几帳面で正確なことを言われる方だと思って間違いないが、どうやらそういう御仁はまずいない。
我々が息を吸い、吐き、生きている今現在というものは、なんともあやふやでしっかり把握できないヌエのごときものである、と私は思うのである。
「来年のことを言うと鬼が笑う」という諺があるが、なんとびっくり「今」ですら我々は大雑把にしかわからないのである。
「今」と言葉に出さずとも、認識しただけで、その認識した瞬間に認識した
「今」は既にちょっと
「過去」に姿を変えてしまっているものである、と
何かの本に書いてあった。
そこまで考えると小学校低学年に向かって
「今の教室の温度」を尋ねるというのは、何とも
深い質問であるなぁ等と、比較的
どうでもいいことをツラツラと綴っているのは、そう、
暇な証拠である。
あえてこの長い前フリに総括を与えるならば、
「人はもともと皆大雑把。大雑把なのは僕だけじゃないやい。」となる。
我らが探索隊の恥多きエピソードを語りだすとき、私はこのような長ったらしい前フリを用意しなくてはならない苦労を背負っているということに、幾分のご理解をいただきたいと思う。
また同時に、どんなちっぽけな人物でも己の行為を正当化したいと思うものなのだという、人間心理の妙を感じていただければ幸いである。
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